一人ひとりと丁寧に向き合う

先日、「中華街でチャーシュー買ってきました」と35年前、中学校で担任をしていた生徒が仕事終わりに幼稚園に来てくれました。中学生の時に父親を亡くしボクが幼稚園に入ってからも大学進学、就職、結婚、子育てと度あるごとに会いに来てくれる教え子です。

20代のボクはあまりにも若く、至らなさの塊で教室のガラスは割れるし、消火器の粉で廊下は粉だらけ、掃除用具入れはボコボコだしそれはそれは大変なクラスでした。多感な中学生、社会の枠組みや大人への反抗を直接ぶつけてくる彼らと向き合って、時には保護者全員に理解が得られず、副校長含めた緊急保護者会が開かれたこともありました。

彼らと話し合いを重ね、なりたい自分と今の自分との間でもがき苦しんでいること、自分が何者で将来何になりたいか等、漠たる不安のなかポツリポツリと自分を語るようになってきました。「俺たちは捨て駒!」と自ら言い放つ荒(すさ)んだ教室の雰囲気の中、冒頭の教え子はマイナス思考に偏っていたクラスにポジティブな呼びかけをし続け、一人ひとりが尊重されるクラスへの手助けをしてくれました。

幼稚園からご飯屋さんに場所を移し、50歳に近づく彼からの言葉は、子どもが大学進学で一番お金がかかるとか、もう一度新しい挑戦をしてみたいだとか、『焦り』がにじみ出ているようでした。翌日LINEが来て、「先生の『諦める』って言葉、自分に足りない何かを教えていただいたようです。まだまだ深い部分までは理解してないですが、ありがとうございました」と。

学生時代に出会った『諦(てい)観(かん)』という言葉があります。迷いや悩みがある場合に、その本質を見極め理解を深めることです。その過程で、悩みから解放されるためには、執着から離れること、要するに「諦めること」が必要だということなのです。本来とても前向きな意味なんですね。そんな話ができる教え子は教え子というより人生を共にする同志として、ボク自身の幸せを積み上げる大切な存在です。

幼稚園では、20年、30年前に園児だった子が、保育者となり子どもに接する先生がいます。また、同じ制服を着させて我が子を通わせる保護者になっている方もいます。とても嬉しいことです。お互いの人生の接点は短いかもしれませんが、再びその接点がつながっていく奇跡も感じます。一人ひとりと丁寧に向き合うことを今後も続けていきたいと思う日になりました。